染色家・アーティスト。東京都生まれ。2024年に101歳で生涯を閉じた。民芸運動の提唱者、柳宗悦との出会いを機に、芹沢銈介に師事。染色以外にも版画、絵本、立体、切り絵などの様々な分野で制作を手がけた。国内外、多数の展覧会で作品を発表。インテリアブランドやホテルとのコラボレーションも行う。2008年、86歳のときに、初となるパリでの個展を成功させ、以降3年連続開催した。
私が柚木沙弥郎さんのことを知ったのは、恵比寿の書店で一冊の本を手にしたときのことでした。確か新型コロナウィルスの猛威に悩まされていた頃だったと思います。
『柚木沙弥郎の言葉』柚木沙弥郎・熱田千鶴著 グラフィック社
(柚木さんが98歳の時の本です)
綺麗なターコイズ色の背景に丹頂鶴が並んで描かれていて、「あ、綺麗……」と思い手にした瞬間、からし色の帯に書いてあった一文が目に止まり、胸の中に温かい何かが流れたような感覚を覚えました。
いつからはじめたっていいんだよ。僕だって物心ついたのは80歳になってからなんだから
——— 柚木沙弥郎
迷うことなく、その本を買い求め、あっという間に読み終えてしまったことを覚えています。
読み終えた本を閉じた時には、すっかり柚木沙弥郎さんのファンになっていました。発する言葉、一語一語に味があってとても素敵。人となりにすっかり魅了されたのです。そののち、作品を調べていくうちに、雰囲気と色使いに惹かれていきました。
芸術一家に生まれた人
1922年、東京田端(現在北区)で柚木家の次男として生まれました。父親は洋画家の柚木久太(きゅうた)。祖父は、実業家で日本画家でもある柚木玉邨(ぎょくそん)。兄の祥吉郎さんも洋画家。
芸術家の家系に育ったんですね。
長野県松本の高校に通っていた頃に太平洋戦争が始まります。
東京帝国大学(現在の東京大学)文学部美学美術史学科に進学。在学中に学徒動員され戦争へ。戦争で、東京田端の家を焼失してしまい、終戦後は、父親久太の生家のある岡山県浅口郡玉島(現在の倉敷市)に移り住みました。そこで倉敷にある大原美術館に就職。一年後に結婚。
運命の出会い
大原美術館の館長が柳宗悦と親交があったことで、柳宗悦が提唱した民藝の思想に触れました。民藝の世界に触れて雷が落ちたような衝撃を受けたと言います。
その大原美術館の売店で、
芹沢銈介の型染カレンダーと出会います。
「数字と模様が絡み合ってなんとも美しい、これを見たときは衝撃的で惹かれた」と数々の記事で、当時のことを振り感動したことを語っています。
1947年、大原美術館を退職して芹沢銈介の弟子になります。芹沢銈介によると、まず、染職人のところに住み込みをした方がいいとのことで、静岡県清水氏にある染色工場「正雪紺谷」に住み込みで働くことに。この住み込み修行期間が、柚木沙弥郎さんのモノづくりの出発点となりました。
その後、精力的に活動。染色作品を世に送り出し続けました。
染色家として活動する傍ら、女子美術大学の仕事(専任講師、教授、学長)を兼務。
パリでの挑戦
幼い頃から憧れの地だったパリ。
「なにしろ父の影響が大きい。パリは芸術や文化をとても大事にする、そういう場所だって何度も聞いていたから。よくアルバムを見せてもらいました。いつしかパリは僕の憧れの場所になったね」
——— 『柚木沙弥郎のことば』より
86歳にパリのギャラリーで個展を開きました。大変好評で、翌年、翌々年と3年連続で開催。年を重ねても精力的に活動を続けていた柚木さん。
101歳で生涯の幕を閉じるまで、日常にある面白いもの、楽しいことを原動力に作品を作り続けました。
「自分が面白くなれば、他人も面白くなる。それがものづくりの原点。」
「ワクワクしなくちゃ、つまらない」
——— 柚木沙耶郎