芹沢銈介(せりざわ けいすけ)1895-1984

染色工芸家。型絵染の重要無形文化財保持者(人間国宝)。沖縄の染物・紅型(びんがた)に出会ったことを契機に、型染めを中心とした染色の道を歩み始めました。文字、植物、人物、風景、幾何学模様など、さまざまなモチーフを、着物、屏風、絵本、本の装丁、カレンダー、看板や照明デザインなど、幅広い分野で新たな表現を生み出し、日本の染色の世界に大きな足跡を残しました。

幼少期と運命の転機

芹沢銈介(せりざわ けいすけ、1895–1984)は、静岡県静岡市で呉服太物卸売商を営む家に生まれました。呉服問屋ですから、それはもう美しいものに囲まれて育ったことでしょう。反物や、色鮮やかな錦絵、美人画等。自然と絵心が育まれていきました。幼稚園の頃から絵の才能を周囲に認められる存在。本人も東京美術学校への進学を夢見ていました。

しかし、卒業を目前にしたある日、実家が火事で焼失してしまいます。美術大学進学への道を断念しなくてはなりませんでした。しかし、これが運命の転機でした。その後、親戚の家に寄宿しながら東京高等工業大学(現・東京工業大学)の図案科に進学。ここで図案を学んだことが、のちに「デザイナーとしての芹沢」を形づくる礎となったのです。もし彼が美術学校に進んでいたら、純粋な画家の道を歩んでいたかもしれません。この遠回りがあったからこそ、工芸とデザインの架け橋となる独自の道が開かれたのです。


民藝運動との出会い

芹沢銈介にとって大きな転機が再び訪れたのは、32歳のとき。友人の鈴木篤と朝鮮旅行に向かう船の中で、雑誌『大調和』に掲載されていた柳宗悦の論文「工藝の道」を偶然手にします。そこには「名もなき職人たちが生み出す工芸の美」に対する深い敬愛の念が綴られていました。

柳宗悦の工芸の道には「職人たちは伝統や自然条件に素直に従い、特別に美しいものを作ろうとする意識を持たない。だからこそ、真に美しいものが生まれる」とありました。この言葉に強い衝撃を受け、「芸術とは特別なものではなく、暮らしの中にこそ宿る」という民藝の理念に心を開いていきました。やがて柳宗悦、陶芸家の濱田庄司、バーナード・リーチらと交流を深めていき、芹沢銈介は民藝運動の中核を担う存在となっていきます。


型染めとの出会いと確立

民藝の理念に共鳴した芹沢は、自らも手を動かし、模索を始めます。彼がたどりついた表現が「型染め」でした。沖縄の紅型(びんがた)や江戸小紋の技法から大きな影響を受け、独自の型紙や染料を工夫し、次第に唯一無二の作風を築いていきます。

芹沢の型染めは、大胆な構図と鮮やかな色彩、そして素朴さと格調高さが同居しています。屏風、着物、帯、のれん、絵本、装丁など幅広い対象に染色を施し、「型染めの芸術家」として国内外に知られる存在となりました。とりわけ絵本『あいうえおの本』は、子ども向けでありながら芸術性が高く、現在も名作として親しまれています。

1956年、型染めの技術と芸術性が評価され、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。芹沢銈介の名は、名実ともに日本を代表する工芸家として刻まれました。


暮らしと芸術のあいだ

芹沢銈介の作品を眺めると、不思議と肩の力が抜けていきます。特別な場面を描いているわけではなく、身近な自然や日常の道具、古来から伝わる模様を題材にしているのに、そこに宇宙的な広がりを感じるのです。

暮らしの品を飾り立てるのではなく、あくまで日常の中に寄り添わせる。その姿勢こそが、芹沢銈介の芸術を長く魅力あるものにしているのだと思います。


芹沢銈介から受け取るもの

私が初めて芹沢銈介の作品を実際に目にしたのは、広島で開催されていた展示会場でした。確かのれんを中心に展示してあったように覚えています。のれんの中に暖簾を描いた「縄のれんもんのれん」の完成度の高さに息を飲みました。ひらがなまでも美しく表現とがこんなにも力を放つのかと驚きました。型紙のリズム、染料のにじみ、そして余白の美。それらが重なり合って、暮らしの中に潜む「無意識の美」を静かに語りかけてくるのです。

「美しいものは、名のない職人の手からも生まれる」――その柳宗悦の言葉に触れたときと同じように、芹沢の作品は、私たちに「美は誰の暮らしの中にもある」と教えてくれます。

型染めの文様を見つめていると、自分の生活のひとつひとつもまた模様の一部なのだと思えてきます。家事や仕事、人とのやりとり。繰り返される日常のなかに、実は大切なリズムや色合いがあるのかもしれません。

思えば紅型を慕い、紅型を追って今日まできました

芹沢銈介全集月報三 1980 /別冊太陽染色の挑戦 芹沢銈介 2011/7/1