小田 豊四郎(おだ とよしろう)1916-2006

北海道帯広市にある菓子店『六花亭』の創業者。「十勝で生きる子どもたちの詩心を育みたい」という思いから、児童詩誌『サイロ』を創刊しました。美味しいお菓子をつくることで、社会に貢献しようとした人です。

少年時代と修行の日々

小田豊四郎さんは、薬学専門学校への進学を夢見ていましたが、父親の事業が失敗し、その夢を断念しました。旧制中学校を卒業後、ひとりで札幌の親戚が営む菓子店『札幌千秋庵』に働きに出ることになり、家族が離れ離れで暮らす辛い思いを経験します。

札幌千秋庵では、厳しい日々が待っていました。自転車に乗ることができませんでしたが、配達を言いつけられ、早朝から自転車を乗る練習をしました。修行に負けそうになるたびに、「自分の弱さに負けてはだめだ」と自分自身んを奮い立たせて乗り越えたそうです。

小さい頃から母方の祖父に可愛がられていた豊四郎さんは、祖父の生き方が好きでした。その祖父の言葉、「負けたらダメだ、努力しろ」を胸に刻んでいたのです。

帯広千秋庵の誕生

札幌千秋庵で働き始めて4年目の夏、豊四郎さんは帯広千秋庵の経営を任されることになりました。それまで離れていた家族と再び一緒に暮らせるようになり、心を新たにお菓子づくりに励みます。札幌千秋庵を経営する叔父からは、「どんなに高くてもいいから、一番良い材料を使って美味しいお菓子を作れ」と教えられました。

帯広では、毎日必死に美味しいお菓子作りに励みました。しかし、売り上げは少なく、葬儀社、神社など営業に奔走しながらも厳しい状態が続きます。支払いができなかったら店を閉めようというギリギリのラインで経営していましたが、いよいよ、借金の500円が足りなくなってしまいました。覚悟を決めて店を閉めようとしていたところ、札幌にある塚本食糧興業株式会社の鎌田長市社長が500円(当時では一般的月給5〜6ヶ月分程)を貸してくれました。

しかし、鎌田社長は、その500円を借金返済に使ってはいけないというのです。

「この金で砂糖を買うんだ」

豊四郎さんは、戸惑いましたが言われた通りに砂糖を買いました。

この判断が大きな転機となります。

ほどなくして戦時下となり、物の売り買いを引き締めるようになりました。砂糖は統制品となって自由に手に入らなくなってしまったのです。他の菓子店が苦労する中、帯広千秋庵は砂糖を使ってお菓子を作ることができ、評判を呼びました。店は瞬く間に繁盛し、豊四郎さんは鎌田社長の先見の明と温かい支援に、感謝してもしきれなかったことでしょう。


お菓子は文化のバロメーター

戦争や経営難を乗り越えた帯広千秋庵は、次第に「美味しいお菓子の店」として知られるようになりました。ある日、帯広市で行われた関西大学名誉教授・山﨑紀男氏の講演で、豊四郎さんは忘れられない言葉を耳にします。

「知らない町に行って、その街を代表するようなお菓子を食べると、だいたいその街の文化の程度がわかる。お菓子は文化のバロメーターである。」

この言葉に深く感銘を受け、「帯広を代表する銘菓を作ることが自分の使命だ」と決意。

「いつか帯広を、お菓子の美味しい街にしたい。」

そう願い、豊四郎さんは地元の子どもたちの詩心を育むため、児童詩誌『サイロ』を創刊します。この詩誌は、福島県郡山市の老舗菓子店「柏屋」が発刊していた『青い窓』に感動したことがきっかけでした。『サイロ』の表紙を描いたのは、画家の坂本直行さん。(坂本直行の記事はこちら→

のちに坂本さんの絵は、六花亭の包装紙として受け継がれていきます。


六花亭の誕生

経営者仲間とともに訪れたアメリカ・ヨーロッパの旅で、豊四郎さんは新しいヒントを得ました。

帰国後、ホワイトチョコレートの製造を始めます。当時チョコレートは茶色。白色はまだありませんでした。最初はなかなか売れませんでしたが、やがて話題を呼び、人気商品となりました。

このホワイトチョコレートの成功がきっかけとなり、45年間掲げていた「千秋庵」の暖簾を返上。新たに『六花亭』を創業します。「六花亭」という名前は、奈良・東大寺管長の清水公照老師が命名しました。ようやく新しいスタートを切ろうとしていた最中、苦しい時を支えてくれた最愛の母が亡くなります。

「新しくなった六花亭を見せたかった」と、豊四郎さんは母を思い、天国に向かって誓いました。

「六花亭を、日本一のお菓子会社にする。」


お菓子づくりで社会に貢献する

「社会に役立つ仕事をすること」——それが豊四郎さんの生涯の信条でした。美味しいお菓子を作ることで人々を笑顔にし、社会に貢献するという志を持ち続けました。その精神は、今も六花亭の企業理念として受け継がれています。


参考文献:『お菓子の街をつくった男』上條さなえ 著(文溪堂)